| 〜国を滅ぼす成績至上主義〜狭視野な教育論議
国際比較の学力低下が問題になっている。 文部科学省は中央教育審議会にこの問題を諮っている。そのテーマは実施されて2年しか経っていない学習指導要領に向けられているらしい。それは主に年間100時間を超す「総合的な学習の時間」に向けられていると聞く。
子供の学力低下は、たしかなデータである。しかし、その要因についての学者や評論家の意見はどうも見当違いに見えて仕方がない。授業時間数を増やせば学力は向上すると思いこんでいる意見が多数を占めているからである。とくに大学教授のこうした指摘はヒステリックにさえ見える。
そもそも、現行学習指導要領は詰め込み主義の授業の集中への反省から作られているはずである。「ゆとりの教育」は、まさにその反省から出てきた言葉なのである。ところが、今朝令暮改のような学習指導要領いじめが行われているように思える。
たしかに現行の「総合的な学習の時間」について、その趣旨がまだまだ教師全体に行き渡っていないきらいは十分にある。したがって、この時間を補習に充てている学校も出てくるのである。
事実文部科学省の「総合的な学習の時間」への趣旨徹底は不十分きわまりないものであったと考えている。それは「児童生徒に課題を見つけさせ、自ら解答を導き出す教育」ということで、その指導の仕方は教師の創意工夫に委ねる。そして、評価もつけないという中途半端なものである。
この科目が持つ意味をもっと深く説明すべきであろう。
私の見る限りでは、これに関する参考書は教材会社がこぞって出している。その中身を見ると、たしかに見当違いなものは少ない。しかし、総合的な学習を本気で行っている学校はごくわずかである点は、大いに反省しなければならないと考えている。
それは、なぜなのか?教師に、この教科が持つ意味を理解させないでいるからではないのだろうか?
わが国の教育は明治33年に「義務教育令」が施行されて以来、実に100年以上に亘って制度の効率化をを追究する「一斉授業」に終始していたことは周知の通りである。これは教師1対40名(多いときは60名に及んだときもある)という形で教科書、黒板を主たる手段として知識の伝達が行われてきたのである。
100年以上の時代の流れの中で変わることのなかったこの教育形態はドロップアウトする児童生徒を救うことが困難であるいう欠陥をもっていた、同じ教室の中で「できる子とできない子」が生じて、できない子を救済する術をもっていなかったと言えよう。学力の低下に気づいて「補習授業」をする学校はあったが、一斉授業がもつ欠陥については大きな議論に至らずに今日に至っている。
できない子は教室にいても、当然のことながらおもしろくないはずである。私語や立ち歩きは相手が子どもであってみれば、当然出てくることは明白である。その時、多くの教師はその子たちを叱って勉強させようとした。生徒指導の対象になる生徒たちの多くはドロップアウト気味の生徒であった。教師はそれを力で押さえようとした。これが、これまでの学校の大きな流れであろう。
しかし、民主主義という自由の風潮の中ではなはだ身勝手に育った子どもたちは、教師の圧力に従わなくなったのである。「生徒は教師に従うもの」という固定観念観念が崩れたときの教師たちは、実に脆さを暴露したのである。叱れども従わない生徒を前に教師たちは、家庭教育の低下を嘆き、世相の乱れを憂えた。
これは生徒と家庭の教師不信を招く結果になったのである。教室では孤立する教師が増加した。横の連携をとれない教師たちは、ここで自分流の授業や生徒指導を始める結果を招来したのである。
これは、あまりにも雑ぱくな考察に聞こえると思われるが、学校現場の実情はそうであった。
この状況は「おもしろくない授業」「不親切な先生」という印象を子どもたちに持たせたのである。そして教師不信が起こったのである。これが家庭に移行するのはごく自然な成り行きであろう。
これはもちろん概論であって、すべての学校、すべての教師に当てはまるものではないが、教育の流れはまさしくそうなのである。
教室で苛立つ教師は学習指導要領と教科書の呪縛から逃げ出せずに、理解できる生徒だけを相手に先を急ぐ授業に走ったのである。これは、乗り遅れた生徒を救出することを次第に困難にしていった。一昔前までは、乗り遅れれば手仕事を身につけるために義務教育期間を過ぎれば進路を技術修得に変えることが容易だった。しかし、経済復興の中で親たちの高学歴志向が激しさを増した。それに呼応して、高校、大学が林立したのである。
私は人の能力は5つの系統に別れると思っている。1は知力、2は判断力、3は思考力、4は創造力、5は体力である。この能力は均等に伸張することが望ましいことは言うまでもない。しかし、生徒個々の資質、生育環境で自ずから相違が出てくるのは当然の理である。
しかし、教育関係者の大きな誤りは、この5能力の中で最も計測しやすい「知力」の教育の基本をおいたことであると考える。通信簿然り、入学試験然りなのである。教育方針も知力の伸張に重点が置かれたのはいうまでもない。ここで、生徒個々の個性無視の知力一辺倒の教育がごく当たり前とされたのである。創造力は豊かでも、人よりも作業能力は劣り、時間をかけて吸収する子などは、授業について行けなくなった。
系統的に進展する教育カリキュラムは、ひとたび頓挫するとその時点で先に進めなくなる欠陥をもっている。遅れた者たちは、知的スケールのみで判定する能力評価に自己否定的になり、勉強に興味を失っていった。興味の湧かない教室ほど、その生徒にとって空虚なものはないはずである。その結果が私語であり、居眠り、出歩きにつながっていった。
はなはだ概論的であるが、劣等感をもつ子どもたちは行き場を失っているのが現状である。その子どもたちは、前述の系統的カリキュラムに乗り遅れているのだから、授業時間が増えればさらに苦痛がますことになるであろう。学力低下は、授業数の増加では防げない由縁はそこにある。
それにもかかわらず、世の親たちは子どもの資質に関係なく勉強に追いやろうとしている。05,10,7付け日本経済新聞は保護者の6割が「ゆとり教育」を見直すべきだと考えているという内閣府の調査を公表している。いかにわが子の資質に疎く、勉強をしさえすれば子どもの能力は高くなると盲信しているかの表れであろう。また、同じ調査で「学力向上」には、塾・予備校が優れている」という結果を報道している。
記憶力を鍛えるために血道を上げている進学対策の設備のほうが、学力向上には役に立つのはいうまでもないことである。悲しいことは「教育」そのものが相変わらず記憶力優先のままであるという鈍感さである。
企業の人事採用形態は、戦力になる人材を求めている。そのためには出身校というブランドにはこだわらない方針が色濃くなっている。学閥がものを言うのは官庁のキャリア組というごく少数の人たちに限られつつある現状に、親も教育行政ももっと目を向けなければならない。ニートと呼ばれる社会人になりきれない若者の増大は、子どもには学力と学歴を、大人はこぞって高収入とブランド
指向の安定した職場を求めてきた、あまりにも夢のない大人のせいなのであるという反省がなければ、どこまで行って消えないのではないのか。この日本の教育観は明らかに
病んでいることになぜ気がつかないのか!!
かわいそうなのは、自分の資質を伸ばすチャンスをつぶされている多感な子どもたちである。文部科学省は、これを声高らかに国民に訴えるべき義務があるの
だが、もし、それに気づいていないとしたら怠慢のそしりは免れないのではないのか。明らかに教育の方向を逸脱した学力主義教育から抜け出さないと、国を滅ぼすことになることを大人全員が深刻に考えなければならないときなのである。
その中で30年間もひたすら「総合的な学習」のみを続けきたという長野県の伊奈小学校の先見の明には感嘆するが、今になってここでも基礎学力の突き上げがあるのだという。いかに教育の本質を追究しようとしない、大人が多すぎるか、国民一人一人が猛省をすべき次期に至っている。
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