学校課題支援法
教育現場からの学校改革
考案:笠井喜世

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テトラS+1で学校 から地域、社会すべてを変えてゆこう!!学校での授業崩壊の一掃 、学習離脱者を救え!!子どもの個性を伸ばせ!!教師はもっと連携を強め地域にも密着せよ。 地域は地域の子どもに、教師は生徒にもっと関心を持って接触しよう。これが新しい教育を作る起爆剤になる!!

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School&Society Subjects Support System

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 校内暴力の再燃の対策   〜学力重視がイライラ生徒を産む〜

 文科省が小中校生の「08年度問題行動調査」の結果を発表した。

 それによると、前年度比13増の5万9618件にのぼるという。

 これは文科省が「ゆとりの時間」の見直しをし、学力向上に舵を切ったことと無縁ではない。

 暴力行為は主に、対教師暴力、生徒同士の暴力、校内の備品を壊す器物破損などである。児童生徒の学校内でのストレスが「学級崩壊」を巻き起こして話題になってから10余年になるが、それが再燃していると見るべきである。

 学力重視がなぜ校内暴力に結びつくのか?それは、授業を急がなければならない教師が生徒個々への接触が減り信頼関係が阻害されているからに他ならない。生徒はイライラを募らせて、人やものに当たり散らすのだと考えられる。

 一口に校内暴力と言うが、それが校内に蔓延するともう教師の手におえなくなる例が過去にいくつもある。

 もう20年以上前になるが、生徒が荒れきって手がつけられなくなっていた高校に勤務していた筆者(笠井喜世)が同僚と力を合わせて、わずか1年で見違えるように沈静化した事例をもとに、「テトラS・学校蘇生法」を考案したのが、全国各地で話題になり普及した。

 しかし、その後学校は徐々に沈静化し暴力沙汰があまり問題にならなくなった。そのために、「テトラS」は最近では学力向上を目指す学校で取り入れられる程度になっている。

 しかし、学校の現状を見ると「暴力化」の現象はこれからさらにひどくなると考えられる。それは授業の遅れを生み、不登校や生徒の非行化に弾みをつけることにつながる。今のうちに正しい対処をしないと手がつけられなくなる。

 だが、この初期消火とも言うべき対策は学校では意外に行われない。「厳しくすればなんとかなるだろう」というような安易な考えが支配的だからである。

 この際、学校管理職は暴力化の小さな兆候をも見逃さないことが肝要である。

 そこで重要なことは、組織論では当然なことだが「教師の意思の疎通」が十分にあることである。「教師が一枚岩になる」というような表現がされたことがあったが、教師同士のコミュニケーションが十分でないと、教師が組織的に事に当たることがむずかしくなる。

 そのためにシステムが「テトラS」なので、十分な検討をしていただきたい。

 このことに関する問い合わせについては、MOKU出版内の「AQ研究室」に問い合わせていただきたい。

 管理職の早い手当が、どうしようもない荒廃校に落ち込むことを防ぐのである。


「教育基本法」改正はいのちの尊厳が根底にあるべきだ 〜人の誠をどう教えるか〜 

 国会で教育基本法が改正されました。論点は「愛国心」にあるようです。これはもちろん重要です。でも、今頻々として起きている中学生の忌まわしい犯罪、小学生の誘拐殺害 などというおどろおどろしい現実を国会議員にも真剣に考えてもらわなければなりません。

 戦後の教育は「国を愛する」前に「他人を尊重する」という基本的な道徳を社会ぐるみで忘れてしまっていることに反省点を見出さなければなりません。「戦争はいけない。だから、戦争はしません」というのが憲法第9条で誓ったことのはずです。 それは何も対外的に暴力的・強圧的になるということではなく日本国内の人々の生活自体が穏健であり、お互いが尊重し助け合うものでなければ意味がないと考えます。そのためには「他人くたばれ、吾繁盛」という利己的な考えが支配するものであってはいけないと思います。

 しかし、ホリエモンこと堀江貴文氏はこの期に及んでもしらを切っているように、経済優先の考え方が社会を席巻したまま今日にいたって、未だに国の指導者からはそれを反省する言葉は出てきません。微視的には、心やいのちを大切にする人々の動きはあっても、国全体の流れは「経済優先」のまま変わる気配も見えません。 このような社会には、必ず排他的競争原理が働いているはずです。

 それが他人への思いやりの欠如につながっているはずです。その結果競争にも勝てず人に思いやってもらえなかった弱者がたくさん出てしまいました。でも、その人たちも人間ですから、思いきり自己主張をしたくなることもあるのは当然です。その欲望が、今弱者に向けられていると考えます。弱者は子どもです。大人になった弱者が子どもという弱者を対象にして犯罪行為をするに至っています。

 その犯人に共通することは社会的敗者であることです。その敗者がなぜいとも簡単に子どものいのちを奪うのでしょうか?だれの心の中にもある闘争本能(競争本能)が犯人たちを子どもへの加虐へと走らせていると考えられます。その加虐がなぜ「殺す」ということに直結するのでしょうか?それは、人間の生理的リズムが追いつけなくなりつつある社会的スピードにあると考えています。

 今の社会は人への尊重が軽視されておりますが、それはそのまま教育にも現れております。相手の気持ちを思いやるという人間関係の基本を多角的に教育するシステムが構築されておりません。これは、国のリーダーたちも気づかずに今日まできていることの証だと考えます。

 基本的な学力を身につけさせることはもちろん重要です。しかし、それ以上に「人間の尊厳」について総合的に教育するシステムを早急に作らないと、この国はますますささくれだった恐ろしさだけを増長させるように思えてなりません。今論議されている「教育基本法」には、ぜひともそれを盛り込まなければならないと痛切に考えております。

 それはけっして難しいことではないと思います。「向こう三軒両隣」という考え方が生活の営みの基本になるような社会を作り出すことなのです。プライバシーだけを抜き出して保護法を作るような軽薄な考え方では、この国が本当に戦争をしない国民を育てることは難しいと思えてなりません。

 

〜学校の役割・家庭の役割を明確に〜  今こそ目覚めるときです    

 中教審は、授業時間数増を文科省に答申したようです。数学と国語の時間を増やそうという考えのようです。これは、学習指導要領はそのままにして授業時間だけを増やすというものではなさそうです。結局、またまた学習指導要領がいじられて、学習内容も増えるのではないでしょうか?

 私は、ずっと各地の小中学校を回って、教育の実態を直に見ておりますが、その学校のほとんどの先生が「忙しくて目が回りそうだ」と漏らしています。その原因のほとんどは、児童生徒の生活指導のために時間をとられて、授業の事前準備もままならないことにあります。

 実際に、小学校の現場を直接見てください。なかなか教師の言うことを聞かない子どもたちの指導と、毎日のように家庭から寄せられるクレームの処理に先生たちの帰宅は10時、11時がざらだと言います。

 そのようなところへ持ってきて、授業時間数を増やして果たしていい実績が残せるでしょうか?私は文科省も教育有識者も肝心なところへ目が行っていないと見ています。それは、教育現場の実情をあまりにも知らないまま机上でものを言っているとしか思えないのです。

 先ず、子どもたちの学力低下の原因は授業時間数の少なさだと見ているらしいことです。しかし、現場で気づくことは子どもたちに学習意欲がないことが大きな要因であろうと言うことです。子どもたちは、学校内でも実に奔放です。これ自体はよいことだと思うのですが、授業時間と休憩時間の区別もつけない自由奔放さが見かけられるのです。

 これは、子どもたちに社会人となるための「基本的な生活習慣が欠如している」ことが大きな要因だと考えます。基本的生活習慣のほとんどは家庭でしつけるべきもであることはいうまでもないことです。ところが、学校の実態調査では「睡眠時間が少なすぎる」「大人との対話の時間が十分にとれていない」「あいさつの習慣が家庭内にない」「掃除や片付けが習慣化されていない」などの問題点が明らかになっております。

 これは親の考え方が子どもの自由を尊重しすぎるためか、親の目が子どもをほんとうに見ていないからではないかと考えられます。そのために、学校では躾の範疇に入ることの指導に時間をとられているのです。家庭は、それを当然のことのように考えていないでしょうか?また学校も、それを抱え込んでいるように思います。その上で勉強もすべて学校の責任として丸抱えしていないでしょうか?

 学校の勘違いは、教育を学校だけで自己完結させなければならないということであり、家庭もまた学校のすべてを丸投げしているように感じられます。

 生活習慣は言うまでもありませんが、小学校で習うかけ算の九九は学校だけで覚えきれるものでしょうか?九九の学習時間は約2ヶ月しかありません。(だから、授業時数を増やすのだというのなら学習指導要領をいじる必要はありません)。漢字の書き順や形の修得にしてもそうですが、小学校の学習のほとんどは人が社会生活を営む上で必要となる最低限の基礎学習です。

 そうであれば、子どもたちの頭に記憶されるだけでは足りないように思います。九九や基本文字などは記憶の中から出てくる前に反射的に出てくる者でなければならないと事柄だと考えます。

 ここで強調したいことは、学習内容を体得するためには家庭生活の中に「訓練の場面」を作ろうとする親の姿勢がなければ、子どもたちは基礎的学習を身につけることは出来ないのではないでしょうか。昔もそうでしたが、九九はお風呂やトイレでも口ずさんでいたものです。ましてや、遊ぶものがあふれている現在では、子どもたちは自発的に体得練習をする環境でなくなっています。

 だから、家庭では「訓練の場の設定」が必要だと思います。同時に学校の先生は学校の指導限界を家庭に明確に伝える義務があるように思います。そのコミュニケーションがいい加減になっているために、学習について行けない子どもが増えているのです。

 結論を言いますと「学校の役割と家庭の役割」が明確になっていないところに、学習遅れの子どもたちの増加現象が起きていると思われます。

 「ここの部分は家庭で学習させてください」と言える自信を学校は持たなければならないし、家庭はすべてを学校任せにしておくには親の義務放棄だということを明確に認識しなければならないのだと考えます。それが明確になって初めて、学校も授業の質の向上に取り組めるはずなのです。今は、責任の所在が不明確なまま学校内の混乱が放置されているように見えてなりません。

 〜住民全部で守れ登校路〜 そのために学校は住民との会話を密に  「AQ活性の魔術」活用法のブログから)

 またぞろ、小1女児の下校中の災禍があった。

 ここでは、すでに何度か取り上げているが『AQ活性の魔術』の大きなテーマでもある「教育への地域の関心」について再度考察しておきたい。

  事件に際して校長は「危機管理についてさらに指導を進めたい」と語っているが、この事件は学校の機能外のものであり、学校の指導限界を超えているという線引きを、この際明確にすべきである。「何ごとも学校で」という考え方が教師たちの混乱に輪をかけている。  学校は一定区域内に立地している。子どもたちの通学の利便性を考慮に入れてのことである。最近、その校区に対して自由化の動きもあるが基本的な動きには変化が起きないはずである。幼少時はとくに通学距離は短いことが肝心なのである。  学校は、その地域に立地して動かない教育的施設である。すなわち、学校という施設や機能は、その地域のものなのである。

  しかし、長い間「学校の一人歩き」が続き、そのために地域の関心は学校から離れてしまったのである。その理由には多くの要因があるが、一番の要因は教師の地域離れにあるだろう。定期的な異動による教員人事が教師の地域への関心を希薄にさせたのである。  これは、学校から地域への働きかけが不足することにつながった。『AQ活性の魔術』でもっとも注目していることは、人の関係が人相互のコミュニケーションによって成立しているということである。

  家庭の人間関係、友人関係、教師対児童生徒の関係などすべてがコミュニケーションを軸にして成立しているものである。これは『AQ』に詳述してあるが、人が人として相手を尊重し情報を交換し合うことで、その関係は密度を増す。  そこで学校での教育を考えたときに、「教育」という人間の成長支援は学校を中心とした子どもを取り巻く大人環境の総合的な働きかけでなければならないことが明確になる。

  それが、こと教育に関しては「学校の丸抱え」や「家庭の学校への丸投げ」の様相があったことは否めない。とくに、学校の丸抱えは学校の閉鎖性につながっていったのである。それは学校の様子が表に伝わらないという現象を招いた。これは、当然コミュニケーションの不足につながったのである。  しかし、社会の多様化に比例して生徒も多様化した。本来学習指導に重点が置かれるべき学校機能に「生活指導」がかなりのウエイトで、教師たちにのしかかったのである。それは、学習指導に専念できない状態を招いた。  問題を起こす子の場合、家庭的背景は決まって複雑である。その子どもを指導しようとすれば「家庭」という壁に突き当たるのである。しかし、「丸投げ」的な考えを持つ親ほど学校からの家庭への干渉には拒否的だった。否、それが返って学校批判へと変わることが多かった。  すべてではないにしても、教師たちは家庭との円滑なコミュニケーションをとることに消極的になっているのである。  しかし、給食時の好き嫌いや友人関係のトラブルなどを教師がすべてカバーできるはずのないことを考えてみるべきであろう。

  さて、高度成長気前の日本では人がお互いに助け合うという風潮が人間関係の潤滑油として存在した。しかし、「金こそすべて」という考えがわが国を覆い始めたときに、競争原理の名の下に、人は助け合うという伝統的美徳を事前に失っていった。  子どもがいて、悪さをすれば叱るのはその場にいた大人の役目だった。それで「わが子にかまわないで欲しい」という親はいなかった。だから、家を離れても地域の教育力が働いたのである。子どもは地域の共通の財産だったのである。  高度経済成長の後は、人同士は競争相手ではあっても仲間同士ではなくなってしまった。  それが現在のような地域への子どもへの無関心を自然と生んだのである。  こうなった今、大人たちは何を考えるべきであろうか?世の中は混迷し、なかなか妙案も浮かばなくなった。だからこそ学校の出番になったと言いたい。  学校は、いつの間にか希薄になった家庭や地域とのコミュニケーションについて、特に重要に考えて欲しいのである。コミュニケーションが関係改善に必ず寄与することは『AQ』では立証済みである。

  「開かれた学校」を謳い文句ではなく現実化させることなのだ。「あなたの子、あなたの地域の子は学校で今こんなことを学んでいます」ということを学校自身が地域に向かって発信する必要性が出てきたのである。  そうしてこそ、地域の学校への関心は必ず深まるはずである。  もしわが子が、変な大人にと話しかけられているときに「おかしい。お前はだれだ」という気持ちになるのが当然のはずである。その当然が今なくなっているのだ。それを取り戻すためには、先ず学校から地域への働きかけが必要である。そして、理解し合える関係を築くことこそが急務であるはずなのだ。  登下校路の安全などは地域がその気になれば、もっとたくさんの知恵がでるはずではないのか。「親が、学校が」と自己完結にのみ考えが行くうちは、解決の道は遠いのではないだろうか?

 この記事を出したばかりなのに、今度は栃木県今市市で  12月1日小学校1年生の女児が下校中に行方不明になった。2日午後隣の茨城県で、ほぼ行方不明中の女児と目される少女の全裸死体が発見された。まったく、哀悼の言葉もない。  学校は、もっと危機感を持って地域住民全他への支援申し込みをすべきである。住民が自ら立ち上がってくれるに越したことはないが、問題意識の共有こそが必要なのである。そのためには、学校からの情報開示と支援の要請が必要である。

  「すべての道路には危険性がある」ということを、国民全員が強く自覚しなければならないだろう。そのためには、以前の向こう三軒両隣のつながりと、道路安全確保のための住民全体での話し合いが必要である。

  それをあなたから周囲への人に働きかける。お互いがその気持ちを持つことで、歪んでしまった社会での安全確保は難しい。対岸の火事と思ってはいけないのである。同じ事件が繰り返されている。みんなが賢くならなければならない。その気持ち、すなわち「自分も動こう」というAQがあれば、このような悲惨な事故はもとより子どもの非行も防げるはずなのである。 他人事を自分事にすることは、そう難しいことではない。自己中心的生活への反省をだれもが持つときがきたことを認識しよう

 

〜国を滅ぼす成績至上主義〜狭視野な教育論議  

 国際比較の学力低下が問題になっている。 文部科学省は中央教育審議会にこの問題を諮っている。そのテーマは実施されて2年しか経っていない学習指導要領に向けられているらしい。それは主に年間100時間を超す「総合的な学習の時間」に向けられていると聞く。

 子供の学力低下は、たしかなデータである。しかし、その要因についての学者や評論家の意見はどうも見当違いに見えて仕方がない。授業時間数を増やせば学力は向上すると思いこんでいる意見が多数を占めているからである。とくに大学教授のこうした指摘はヒステリックにさえ見える。

 そもそも、現行学習指導要領は詰め込み主義の授業の集中への反省から作られているはずである。「ゆとりの教育」は、まさにその反省から出てきた言葉なのである。ところが、今朝令暮改のような学習指導要領いじめが行われているように思える。

 たしかに現行の「総合的な学習の時間」について、その趣旨がまだまだ教師全体に行き渡っていないきらいは十分にある。したがって、この時間を補習に充てている学校も出てくるのである。

 事実文部科学省の「総合的な学習の時間」への趣旨徹底は不十分きわまりないものであったと考えている。それは「児童生徒に課題を見つけさせ、自ら解答を導き出す教育」ということで、その指導の仕方は教師の創意工夫に委ねる。そして、評価もつけないという中途半端なものである。 この科目が持つ意味をもっと深く説明すべきであろう。

 私の見る限りでは、これに関する参考書は教材会社がこぞって出している。その中身を見ると、たしかに見当違いなものは少ない。しかし、総合的な学習を本気で行っている学校はごくわずかである点は、大いに反省しなければならないと考えている。 それは、なぜなのか?教師に、この教科が持つ意味を理解させないでいるからではないのだろうか?

 わが国の教育は明治33年に「義務教育令」が施行されて以来、実に100年以上に亘って制度の効率化をを追究する「一斉授業」に終始していたことは周知の通りである。これは教師1対40名(多いときは60名に及んだときもある)という形で教科書、黒板を主たる手段として知識の伝達が行われてきたのである。

 100年以上の時代の流れの中で変わることのなかったこの教育形態はドロップアウトする児童生徒を救うことが困難であるいう欠陥をもっていた、同じ教室の中で「できる子とできない子」が生じて、できない子を救済する術をもっていなかったと言えよう。学力の低下に気づいて「補習授業」をする学校はあったが、一斉授業がもつ欠陥については大きな議論に至らずに今日に至っている。

 できない子は教室にいても、当然のことながらおもしろくないはずである。私語や立ち歩きは相手が子どもであってみれば、当然出てくることは明白である。その時、多くの教師はその子たちを叱って勉強させようとした。生徒指導の対象になる生徒たちの多くはドロップアウト気味の生徒であった。教師はそれを力で押さえようとした。これが、これまでの学校の大きな流れであろう。

 しかし、民主主義という自由の風潮の中ではなはだ身勝手に育った子どもたちは、教師の圧力に従わなくなったのである。「生徒は教師に従うもの」という固定観念観念が崩れたときの教師たちは、実に脆さを暴露したのである。叱れども従わない生徒を前に教師たちは、家庭教育の低下を嘆き、世相の乱れを憂えた。

 これは生徒と家庭の教師不信を招く結果になったのである。教室では孤立する教師が増加した。横の連携をとれない教師たちは、ここで自分流の授業や生徒指導を始める結果を招来したのである。

 これは、あまりにも雑ぱくな考察に聞こえると思われるが、学校現場の実情はそうであった。

 この状況は「おもしろくない授業」「不親切な先生」という印象を子どもたちに持たせたのである。そして教師不信が起こったのである。これが家庭に移行するのはごく自然な成り行きであろう。

 これはもちろん概論であって、すべての学校、すべての教師に当てはまるものではないが、教育の流れはまさしくそうなのである。

 教室で苛立つ教師は学習指導要領と教科書の呪縛から逃げ出せずに、理解できる生徒だけを相手に先を急ぐ授業に走ったのである。これは、乗り遅れた生徒を救出することを次第に困難にしていった。一昔前までは、乗り遅れれば手仕事を身につけるために義務教育期間を過ぎれば進路を技術修得に変えることが容易だった。しかし、経済復興の中で親たちの高学歴志向が激しさを増した。それに呼応して、高校、大学が林立したのである。

 私は人の能力は5つの系統に別れると思っている。1は知力、2は判断力、3は思考力、4は創造力、5は体力である。この能力は均等に伸張することが望ましいことは言うまでもない。しかし、生徒個々の資質、生育環境で自ずから相違が出てくるのは当然の理である。

 しかし、教育関係者の大きな誤りは、この5能力の中で最も計測しやすい「知力」の教育の基本をおいたことであると考える。通信簿然り、入学試験然りなのである。教育方針も知力の伸張に重点が置かれたのはいうまでもない。ここで、生徒個々の個性無視の知力一辺倒の教育がごく当たり前とされたのである。創造力は豊かでも、人よりも作業能力は劣り、時間をかけて吸収する子などは、授業について行けなくなった。

 系統的に進展する教育カリキュラムは、ひとたび頓挫するとその時点で先に進めなくなる欠陥をもっている。遅れた者たちは、知的スケールのみで判定する能力評価に自己否定的になり、勉強に興味を失っていった。興味の湧かない教室ほど、その生徒にとって空虚なものはないはずである。その結果が私語であり、居眠り、出歩きにつながっていった。

 はなはだ概論的であるが、劣等感をもつ子どもたちは行き場を失っているのが現状である。その子どもたちは、前述の系統的カリキュラムに乗り遅れているのだから、授業時間が増えればさらに苦痛がますことになるであろう。学力低下は、授業数の増加では防げない由縁はそこにある。

 それにもかかわらず、世の親たちは子どもの資質に関係なく勉強に追いやろうとしている。05,10,7付け日本経済新聞は保護者の6割が「ゆとり教育」を見直すべきだと考えているという内閣府の調査を公表している。いかにわが子の資質に疎く、勉強をしさえすれば子どもの能力は高くなると盲信しているかの表れであろう。また、同じ調査で「学力向上」には、塾・予備校が優れている」という結果を報道している。

 記憶力を鍛えるために血道を上げている進学対策の設備のほうが、学力向上には役に立つのはいうまでもないことである。悲しいことは「教育」そのものが相変わらず記憶力優先のままであるという鈍感さである。

 企業の人事採用形態は、戦力になる人材を求めている。そのためには出身校というブランドにはこだわらない方針が色濃くなっている。学閥がものを言うのは官庁のキャリア組というごく少数の人たちに限られつつある現状に、親も教育行政ももっと目を向けなければならない。ニートと呼ばれる社会人になりきれない若者の増大は、子どもには学力と学歴を、大人はこぞって高収入とブランド 指向の安定した職場を求めてきた、あまりにも夢のない大人のせいなのであるという反省がなければ、どこまで行って消えないのではないのか。この日本の教育観は明らかに 病んでいることになぜ気がつかないのか!!

 かわいそうなのは、自分の資質を伸ばすチャンスをつぶされている多感な子どもたちである。文部科学省は、これを声高らかに国民に訴えるべき義務があるの だが、もし、それに気づいていないとしたら怠慢のそしりは免れないのではないのか。明らかに教育の方向を逸脱した学力主義教育から抜け出さないと、国を滅ぼすことになることを大人全員が深刻に考えなければならないときなのである。

 その中で30年間もひたすら「総合的な学習」のみを続けきたという長野県の伊奈小学校の先見の明には感嘆するが、今になってここでも基礎学力の突き上げがあるのだという。いかに教育の本質を追究しようとしない、大人が多すぎるか、国民一人一人が猛省をすべき次期に至っている。

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〜15歳・両親、兄弟を虐殺〜AQ理論で考察する  

 東京板橋15歳の高校1年生が両親を虐殺し建物に放火するという事件がまた起きた。少年は周到な準備の元に犯行を実行したらしい。また、同じ頃福岡でも15歳の高校1年生が3年生の兄を刺殺するという事故が起きた。

 またぞろ、中高生の倫理教育を問う声が早くも聞かれるが、ここでは「親と子」「兄弟」など家庭内での関係不全をAQ理論で考察してみよう。

板橋の少年は父親に小学生の時から反感を持っていたと文集などから覗える。 「お前はおれよりバカだ」と父親に言われたと本人は言っているようだ。また、福岡は兄弟同士の関係破壊による惨事である。報道による事実しか分からないが、兄弟という親身な心の通い合いは喪失していたようである。いじめられる兄には動物的な保身行為で接するしかなかったのかも知れない。板橋の少年もとくに父親には強圧的に襲いかかる的からの防御行動を常にとり続けていたらしい。

 もっとも深い絆で結ばれているべき親子関係、兄弟関係が崩壊したときにはかくも凶悪な行為を呼び起こすのである。しかし、これは希有な事例でなくなっているのが、今の社会である。

 どちらの少年も学校ではおとなしい部類に入っていたらしい。だが、これは教師から見た生徒像である。板橋の事件では少年が通う高校の校長が「父親には悪感情をもっていたようだ」とコメントしている。これは担任からの報告なのであろうが、担任の教師から見れば崩壊家庭の例は毎今日にいとまがないほどにあるのが現状なのである。 それらの生徒の中には、あからさまに反社会的な行為をとっている者もいる。それにくらべれば、目立たない子は「おとなしい部類」に入ってしまう。

 学校はその対策としてのカウンセリングや道徳教育を施しているが、迫りくる現状の波に対応しきれないのが実情のようである。しかも、家庭の問題ともなれば傍観する意外手だてがないのである。この「手だてがない」ことが実は現代社会の病巣なのである。教師はもとより、親も周囲の大人たちもなんの手も打てない でいる。

 病巣に手がつけられないということは、問題はエスカレートすることはあっても改善はされない。親子でさえ、兄弟でさえ簡単に殺意を抱いてしまう幼稚な少年 の心を持つ者は、さらに多くいるということを指摘したい。

 元来、親は子を産み慈しみ育てるのが当然の役割であろう。しかし、思春期の第2反抗期にさしかかったわが子と十分に心を通わしていると言える親が少なくなっているのである。私が見る限りでも、子どものうちは「かわいい、かわいい」と育てても、親ととしての密接な交流が出来ないでいる家庭は増加の一途を辿っている。

 それに加えて、いとも簡単に離婚をする。離婚には至らないまでも、夫婦の仲が険悪化すると自然にそのしわ寄せは子どもにゆくのである。そればかりではなく、団塊の世代以降の若い親たちは、すべてを金に換算する経済至上主義の中で育ってきた。 その帳尻をお金で合わせようとする。

 「金では買えないものがある」と観念的には分かっていても、金では買えない「心」をどれだけ生活実践の中で大事にしているか?

 いま、すべての大人が胸に手を当てて振り返らなければならないのだ。「自分の心」と「人の心」との調和にどれだけ心を注いでいるかを反省しなければならない。 ここにAQの論理を入れて考えれば、人はもっと納得のいく生活ができるはずなのである。拙著『AQ 活性の魔術』は上梓したばかりで、それを知る人はごくわずかであろうが、それほど難しい理論ではない。

 「関係ない」「興味ない」と周囲の事象に対して目をつむることを止めればいいのである。板橋の事件も、福岡の事件も今の社会にすべてリンクしているものである。であれば、大人たちはみな何らかの関係を持っていると考えるべきなのである。「私のまわりに人がいる」ではなく「多くの人の中で、私は活かされている」というのが人のありようでなければならないのである。

 人は60兆〜100兆もの細胞から出来ているという。その細胞は、人が生きていく中でどれひとつムダなものはない。あなたが、その細胞のひとつであると考えれば、人の世に「関係ない」ものはないはずなのである。

 東京都都議選の最中であるが、それに真剣な目を向けている都民がどれだけいるだろうか?どの世論調査を見ても「無関心派」が圧倒的多数となる国は異常なのである。これをまず共通認識出来るようにならないと、索漠とした事件の続発に歯止めはかからないはずである。 中には、棄権することが進歩的な考えのように勘違いしている向きもある。

 人の体内でありながら、生きることに寄与する細胞であることを拒否するとすれば、それはまさにガン細胞である。こう考えれば「関係ない症候群」は、まさにこの国を滅ぼすガン細胞ではないのか。

 子どもの凶悪事件に加えて、今の社会で発生するありとあらゆる事件の裏には「関係不全」というキーワードが潜んでいる。「都議選?そんなの関係ないよ」と思っているあなた!あなたはすでに人間社会の中で最重要な「人との絆」の重さを忘れて、自分さえよければすべてよしという、自己チューという病に冒されていると反省していただきたい。

 親であるあなた、教師であるあなた、社会人であるあなた!!人との心の交流の大切さを常に念頭に置いているか。とくに、指導的な立場にある人は、恐るべき「人間関係不全症候群」の現状に気づいてほしい。そして、その現状を今すぐに変える努力をしてほしいのである。

 拙著『AQ 活性の魔術』は、その現状を変えるための処方箋として世に送り出した。要は、その事実に気づき「生活の中の実践」を変えるべきところは変えるということを、今すぐ始めなければならないのである。すべての人が、自分の生活行動の質(AQ ActivityQuality)を上げることに目を向けてほしい。

 だれもがそうするしか、歪みきったこの世の中を変える術はないと考える。政治も、官庁も、企業も自らのAQを考えなければ、世の中の荒廃に歯止めをかけることは出来ない。それは、緊急のことであることを真剣にみんなで考えなければならない。

 子どもたちの心に「邪魔物は殺す」という観念がすぐ湧いてくるのは、すべて私たち、あなたたちの生き方の反映であることを心に刻んでほしい。

 

〜理想的な授業づくり〜鶴岡四中の取り組み    

 6月8日の山形県鶴岡市立第4中学校。どの教室を見ても、生徒の目が生き生きとして活気が教室中にみなぎっていた。生徒全員が授業の流れに入り込んでいる。この光景は、教師ならばだれもが夢見るものであろう。 そして、親もまた「そんな学校で学ばせたい」というのが偽らざる心境であろう。その夢のような授業風景を現実のものとして見ることが出来た。

 学校改革の試みは、各地でさまざまに行われているが、その内容を見ると一科目の工夫であったり、一教師の熱血ぶりだったりするものが多い。しかし、教育を受ける立場の子どもや保護者は「どの先生に教えてもらっても、同じ品質の教育であってほしい」と願っていることは、言わずもがなである。

 しかし、今の教育の実態は学校という機能体の個性はかなり希薄になっている。だから、授業スキルの高い教師に出合えば幸運であり、スキルの低い教師の場合は不運であるというあきらめの気持ちをもつしかない。これは、それぞれの学校名を名乗る集合体としては、教師個々がその改善を大前提とすべきものなのだが、「学校全体を変えよう」という意気込みはおろか、教師自身の関心の低さも見られる昨今である。

 上記の鶴岡市立第4中学校は平成10年当時は、荒れた学校として周囲の注目を集めていた。教師との対立による暴力、器物破損、授業崩壊が後を絶たなかった。加えて、生徒の行状 は市内でも非難の的であり、学校内の落書きはもとより、トイレは汚くトイレットペーパーの設置も出来ない状態であり、休み時間が終わればトイレには煙草の煙が充満し便器には無数の吸い殻が捨てられているのが日常だった。

 この状態を見る教師の心理は、「抑鬱状態」と言えるほどに不健全なものだったに違いない。それが生徒への叱責の強さとなって表れ、生徒は反発していた。当然のことながら授業が順調に進むはずもなかった。   

 この状態をなんとかしたいと、当時の研究主任保科元教諭(現三川中)はたまたま耳にした「テトラS」の導入を提案し、全体で実践を開始したのが平成10年の新年度だった。テトラSへの取り組みは密度の濃いものだった。全教師が本気になって取り組んでいた。後の導入校の実態を見ても、同校の取り組みの真剣さは群を抜いていたように思われる。これは、導入の時期が教師心理(わらをもつかみたいという抑鬱状態)とマッチして、すぐに教師たちが本気になれたところに起因していると考えられる。

 同校の荒れは、翌平成11年度の5月には驚くほどの変容で収束された。あまりにも、突然の変化にわが目を疑う教師も多かったと聞くが、それだけに「いつかは、また荒れ出すのではないか」という不安が常につきまとっていたという。

 この不安が幸いしたこともあるし、提案者の保科教諭の牽引力も強かったからに違いないと思われるが、学校研究としては異例の長寿命を今でも維持している。その基を作ったのは当時の管理職を始め四天王といわれた中心教師の存在であった。しかし、当時の中心メンバーはすべて定期 異動で 他校に移り、現在の同校には当時を知る教師は4名しかいないという。

 テトラSを導入しても、その後鳴かず飛ばずのままだったり、管理職の意向で取りやめている学校も少なくない。人が変われば志も変わるのは当然かも知れない。しかし、ここには重要な問題がある。

 教育の荒廃をいわれているが、これは第2次世界大戦後の日本の復興の軌跡と無縁ではないからである。「時が移れば、人の心も変わるもの」と無関心を装う向きもあるが、「子ども健やかに育てる」という志は変わってはいけないはずである。

 人事異動というものは、時に学校の伝統づくりに水を差すものである。担当が変わるごとに「学校研究」も姿を変えていく。これでは学校の個性は形成されない。

 それに果敢に挑戦したのが、鶴岡四中であると言える。その牽引力となったのは保科教諭転出後の、後任校長(本間齊校長)の指導力であったと思われる。導入4年目に保科教諭が転出後もテトラSは粛々とおこなれてきた。筆者も年に一度は必ず招かれ話をする機会を与えられている。

 筆者は同校に、生徒沈静後の学校方針を常に模索するように勧めてきた。テトラSは直接的で具体的目標は出来るだけ示さない。教師たちが考え気づいて実践したものこそ価値があるからである。

 しかし、筆者は「授業品質」「保護者との連携」「地域との連携」という抽象的な言葉を多発するように心がけた。これらのことを真剣に考えると、「生徒との信頼関係」「保護者との人間関係」さらに「地域との人間関係」を重視することの大切さを教師自らが実感するようになるはずである。

 そのような教師相互の真摯な気持ちが、今回の研究授業にすべて表出されていた。生徒はもとより教師の顔は輝いていた。達成感、充実感を相互に感じあっているようだった。

 殊に、テトラS導入の前年度から同校に勤務して当時の混乱を熟知しているいるという音楽担当の門脇晋哉教諭の授業は際だっていた。4つのパートに別れて、合唱曲「大地讃頌」を4つの教室の別れて練習させる。時間終了が際に、一室に集合しア・カペラで合唱するという試みの授業だった。難しいこの合唱曲を、初めて合唱する、しかも伴奏無しである。研究授業としては、冒険も度が過ぎると思われる試みである。

 それだけに、参観する教師たちにも緊張が走った。門脇教諭の熱のこもった、短い注意のあと、歌が始まった。(曲は18小節まで、各パートごとに練習していた)その瞬間、 教室内に見事なハーモニーが響き渡った。

 18小節を歌い終わった。どのパートも完璧に近い完成度である。門脇教諭は「うまい!」と拍手をした。参観者も拍手。「じょんだー」(当地の方言で「上手だ」)という声が飛んだ。

 うまい。うまいからもう一度聞きたい、そう思ったがそれで合唱は終わった。「うまく合ったら終わり」という約束があったからだ。しかし、門脇教諭は最大の賛辞を生徒たちに送った。生徒たちに質問が飛ぶ「どんな気持ちで歌いましたか?」「しっかりと声をだすことです」「うまくゆきましたか」「ハイ」「あなたの評価は?」「Aです」「ほうすごい拍手」。生徒たちには授業ごとに目標を持たせ、その自己評価を教師が聞き出すのである。

 この授業で生徒が満足しないはずはないだろう。それぞれの目は感動で一杯だった。 受験科目には入らない教科には身を入れない生徒が多いと聞く。しかし、ここでは違っていた。しかも付け加えたいことは、この音楽の時間だけが素晴らしかったのではなく、その他に見せてもらった「英語」「理科」「道徳」授業者6名の授業が、同じように「生きた授業 」だったのである。

 私は、講評で生徒を選択できない「公立校としては最高レベルの授業を見せていただいた」と、教師たちに感謝した。

 さて、これを伝統に出来れば「鶴岡私立第4中学校」の授業品質は、全国でもだれもが認める先進校となるであろう。問題は、人事異動が激しい市の人事の中で、いかに 「教師の連携の継続」というコンセプトを維持できるかではないだろうか。

 今は、「素晴らしい授業をありがとう」と生徒と教師に感謝したい。 同時に、一日でも早くどこの学校でもこのような授業が行われることを祈りたい。

 

〜日本人よ正気に戻れ〜JR福知山線脱線事故に思う    

 4/25日の朝、JR福知山線で凄惨な脱線事故が起きた。そして、106名のいのちが露と消えた。

 今、救出作業が終わり、現場検証が厳密にされているらしい。その間メディアは、刻々と状況を伝えていた。どうやら人気線の過密ダイヤに人為的なミスが要因のようである。効率的利益追求型の企業体質とファジーな人間の行動とがミスマッチを起こしてしまったのだ。実は、この手の事故はとくに最近、頻々と起きていることである。

 ちょっと古くは、東海村での臨界事故は科学と人間のファジー(どうしても持っているいい加減さ)を物語るものだが、本質的には血も凍るほどの恐怖の出来事であった。

 最近では、日本航空が過去の恐怖を忘れたがごとくの、ミスを続発していた。昨年の大雨、台風、地震とオーバーラップして報じられる小さな報道に私は、妙な不安感をぬぐい去れないでいた矢先の出来事が、今回の脱線事故だった。

 TVのニュースを見ながら、私が不満だったことは、JR西日本の経営陣の姿が記者会見と遺体安置所くらいでしか目につかなかったことだ。救助活動は警察と消防の必死の姿が目立ったが、現場検証をしていたJR関係者は数名に過ぎなかった。これだけを見て、私はJR西日本の膠着した経営体系を推測した。

 あのとき社長は背広を着て記者会見をしている状況ではなかったのだ。もし、記者に語るなら作業服にフェルメット姿で、事故現場で社長の人間としての生の声を出すべきだったのだ。「辞任云々」の質問に「NO」と答えるほどゆとりのある場合ではなかった。

 遺体安置所で怒る若い女性がいた。「JRの職員が一人もいないんです。済まないのひと言もなかった。許せない」という絶叫だった。この状況に、私は利益追求と効率至上の経営体質から出たボロを見た感じがした。この会社の人間関係不全を象徴するシーンなのである。

 「指さし確認」という確認法は旧国鉄から始まったというが、それが現在でもしっかりと行われているのを先日見て安心したものだった。この列車は伊丹駅で40bオーバーランをして、列車をバックさせて乗客を降ろしたという。このオーバーランは運転手の操縦ミスであることは間違いないだろう。だから、この間運転士と車掌の間に業務用の無線電話で、オーバーランの「距離を短くして」というきわめて、人間の我執丸出しの話しかされなかった。これが500名超の死傷者が出る直前に、なぜそのような会話しか、行われなかったか?実は、ここに大きなカギがある。

 それは社長の年度目標に、利益や効率は出ていたが、顧客については一文字もなかったことと通じている。

 JRという、元国営企業が分離独立後、何を目指して今日に至ったのかが、雄弁に物語っているだろう。利益とか、時間という観念との痛切な取り組みはあっても、その対象は、「人間のいのち」なのであるという視点の欠落がそこにはなかったのか。

 経済至上主義は、往々にして「自己中心主義」と「利益と効率」とに傾く。肝心な人間が置き去られているのである。

 私が、ここで人間不在を力説するのは、それは現在の日本に蔓延している症状だからである。この病を癒さずして、経済成長も子供の学力向上も意味をなさないからである。

 この5月末に、私は別欄告知のように『AQ 活性の魔術』という本を上梓する。その出版の意味は、まさに自己中心に陥って、窒息しそうになっている社会を救いたいという願いから出たものである。今回の事故が、日本の間違いを象徴する考え違いから発生したものだと考えるだけに、どうしても「日本人よ正気に戻れ」と叫びたいのである。

〜貪瞋痴(どんしんち)・この浅ましきこころ*今こそ考えよう〜     

 昭和20年3月10日、東京の下町が一面の焦土と化した。世に言う東京大空襲大空襲である。落語家林家三平一家を支えてきた海老名香葉子さんは、このとき7人の身内を失ったという。あれから60年、海老名さんは、その時に死んだ約10万の霊を偲んで、上野に私費で「慰霊碑 哀しみの東京大空襲」を建てたという。

 このサイトでは、イデオロギーに関して中立を旨としているので、何に味方するわけではないが、戦争では民間人も軍人も隔てなく殺されるということは事実であることを、この空襲は物語っていると思う。

 歴史を見れば、戦争が絶えなかった時期はないということが一目瞭然である。これは人の浅ましさゆえの歴史でもあると考える。戦争といえど国家間の略奪・強奪行為に過ぎない。

 近ごろのライブドアの堀江貴文氏の言動を見ていると、どうしてもアメリカのブッシュ大統領とオーバーラップしてしまう。戦力にものをいわせて、外国を渦に巻き込むことも金力にものをいわして会社を乗っ取ることも、合法的に見せかけた略奪・強奪の類と何ら変わりなく見える。「それが資本主義だ」と言ってしまえばそれまでだが、少なくても良識的とか人間性からの考えはそれを否定するだろう。

 堀江氏は、年齢から見ても日本の現状を作り出した拝金主義の時代の申し子であると言える。「金さえあれば、すべてが自由にできる」という幻想を持って生きている現代の象徴的な人物に見えて、私としては「ホリエモン」とあだ名される彼が哀れにも思われてくる。

 題名の「貪瞋痴」は、卑しくむさぼる心、怒り恨む心、判断力のない愚かな心を指している。これらの心は、だれにでもあるものである煩悩と同じものである。しかし半面、人は「痴」の病垂をとった「知」を持っている。知性とは、貪瞋痴を慎むための知恵だと考える。

 お金だけでは、どうにもならないこと、その他の浅ましい心を慎むことで、人は辛うじて平和を維持しているとも考えられる。そのためには「努力」というものなしには、世の秩序は保てなくなるのだ。今「心の大切さ」は、だれもが考えることであろう。しかし、その心とは「私だけは」という自己中心的な思考からは、生まれてこないということを私たちは、しかと心得ているだろうか?

 その心を、ホリエモン氏からは感じ取ることはできない。力が強いものが勝ちのガキ大将と何ら変わらない。その判断力は幼少時からの生活の中で教えられ身につくものだ。それをを教えられなかったから、今の彼がいるわけで、成長した今となっては容易なことでは気づくこともできないであろう。

 人を思いやる心なしの、力のあること、頭がいいことだけがけっしていいことではないのだ。そういう考えを、現代は忘れ去っている。ホリエモン氏も、やがて苦悶の境涯に置かれることも十分に考えられる。その時にしか、心というもの大切さには気づけないのではないだろうか。これはホリエモン氏に限ったことではない。拝金主義への反省が足りないのが現代なのである。

 しかし、そんな現代でも幼い子どもたちには、大人が言って聞かせ、やって見せることで何かを感じ取る感性が健在なのである。その感性に望みをかけて、大人たち全員が自分の生き方を客観的に見定めなければならないだろう。

 「新しいことはいいことだ」という風潮がいっこうに変わる様子は見えないが、よく見てみると私たちは同じところをぐるぐる回っているに過ぎないことに気づくはずだ。その時、先人が築いた知の財産に気づくはずである。

 すべては「破綻の前に躊躇して考える」ことが肝要である。先ずは立ち止まって考えてみよう。そこから、救いは始まるように思われる。冒頭の海老名香葉子さんの行いに何を感じるかで、今の自分の豊かさ貧しさが測れるのではないだろうか。

 そんな折、国会議員がわいせつ罪で現行犯逮捕された。このニュースを聞いても、怒らない国民が増えている。すべてが対岸の火事に感じられる。しかし、それが大きな誤りであることは、中越地震の被害者のみなさんが身を以て教えてくれているのだから、大人は子どもにこれを真剣に伝えなければないのだ。

 







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